ネグリのランシエール批判からKADOKAWAの刊行中止を考える

 2024年1月24日にKADOKAWAから発売予定だった『あの子もトランスジェンダーになった SNSで伝染する性転換ブームの悲劇』(原著:Abigail Shrier『Irreversible Damage: The Transgender Craze Seducing our Daughters』)はその内容の不正確さ*1とそれがトランスジェンダーに対するヘイト感情を煽るために動員されているなどの問題を指摘され、多くの批判を集めることになった。それを受けてKADOKAWAは12月5日に同書の刊行中止を発表した。12月2日に書誌情報が発表されてから僅か3日後の出来事だった。その時に公式サイトから発表されたお詫びの文章には、「議論を深めていくきっかけ」になってほしいという、同書を刊行しようと思った理由が語られていた。
 今回の刊行中止の件、刊行を擁護する側の論調として”議論”の必要性を説くものが多く見られた。本邦におけるトランスジェンダーをめぐる制度全般は、未だ議論が足りていない状態にある。それらを民主主義的なプロセスを得て多くの人が納得できるものにするためにはやはり議論が必要だ。だから刊行を非難する者はその議論を無視する反民主主義的な全体主義者であり、カルト的なイデオロギーを有して言論弾圧をおこなっているのだ。いちいち具体的な事例を取り上げないが、彼らの主張を大雑把にまとめるとこのようになる。(この要約が合っているかは各自実際の擁護派の言説を確かめて判断してほしい)民主主義的に議論を進めていくためには、主体を専門家だけに限ってはいけない。自らの日常にトランスジェンダーの存在がどれ程密接に関わっているか、どれだけトランスジェンダーにまつわる医学的知識や法整備、当事者の生活に関する知識を持っているかは関係なく、すべての人が平等に参加する権利を持っている。その対等性は知識がない者、あるいは知識はあるが意図的にそれを歪曲しようとしている者によって、事実に即していない誤った情報の拡散を許すことになり、そのような情報の流通が当事者への抑圧へと繋がっていく。

 ジャック・ランシエールは民主主義にとって必要なものとは「すべての者がすべてを語る」ことだと語った。自分が当事者であることのみだけに自分の発言の場を抑制しないこと、専門の領域に閉じこもらず、各人がすべての事柄、すべての問題、すべての領域に介入をすること。各人に特定の領域や問題、職業や地位を配分する「役割分担(パルタージュ)」の枠組みの解体が民主主義にとっての必須の条件であり、それは確かに国家と癒着した専門家たちに独占された議論(例えば原発に関するもの。ALPS”汚染水"の海洋放出や新宿御苑などへの汚染土の県外再利用などが記憶に新しい。)などには一定のアクチュアリティを発揮した。しかし、トランスジェンダーに対する誤った情報の拡散やKADOKAWAの言う「議論のきっかけ」も、この「すべての者がすべてを語る」という理念に基づいたものではないだろうか? そうであるなら我々はこう問わなければならないだろう。すべての者がすべてを語る「だけ」でいいのか? 
 この問いはランシエール自身の思想の”躓き”にも関わるだろう。ランシエールは「役割分担」体制を「ポリス」と呼んで敵と見做し、それに敵対させるのがその役割分担を越えた「すべての者がすべてを語る」という「ポリティクス」であった。だがその敵対性は歴史の中に存在論的に定位されるものではない。謂わば「超時空的な戦い」となってしまっているのである。そのことを看破したのがアントニオ・ネグリであった。ランシエールについてネグリは次のような批判を行っている。

ランシエールにおいて、解放のアクションはあらゆる歴史的限定からおのれを遊離させるもの、具体的な時間性からおのれの独立を宣言するものとしてある。ランシエールにとって政治とは主体を歴史や社会、諸制度から切り離すアクションのことなのだ。しかしこれは逆説的な話だと言わざるを得ない。なぜなら実際には、歴史や社会といったものへの参加なくしては政治主体というものを問題にすること自体、不可能だからである。*2

 歴史、社会、諸制度などが絡まり合った「情勢」から自らを切り離してしまったランシエールの「ポリティクス」は容易くトランスジェンダーに対する差別の言説、それこそ民主主義の否定に繋がるようなものにも接近を許すことになってしまう。ネグリランシエールを批判したのは、現代の資本主義において、人々の思考や発言にこそ資本は巣食い、価値増殖として利用するものだと見抜いたからだ。*3ジェンダー二元論を強固にしようとする家父長制によるシスヘテロセクシズムと資本主義との親和性を指摘するまでもなく、ネグリランシエール批判における資本の価値増殖を、トランスヘイトの価値増殖と読み替えることは容易だろう。その過ちを犯さないためにも、「ポリティクス」はランシエールがそこから切り離してしまった「情勢」の中に再び身を置き、その中での思考を踏まえた上で「すべての者がすべてを語る」ことを始めなければならないだろう。それは「自分の意見」を語るのではない。考えてみればそれは奇妙な概念だ。自分が何かを語るとき、それは自分が何もないところから汲み上げてきたものではなく、今まで接してきた様々な—そこに固有な誰かを埋め合わせることさえ時としては難しくなるような—他者の言葉の組み合わせのようなものであるはずだ。わたしは何かを語るとき、それは他者の言葉を媒介する者として語っている。重要なのはその「媒介者」としての要人深さ、しなやかさを身に着けることだ。

*1:以下の記事に詳細な反論がある。https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_65792b28e4b0fca7ad228fef

*2:Antonio Negri (2013), È POSSIBILE ESSERE COMUNISTI SENZA MARX? http://www.euronomade.info/?p=686(邦訳は廣瀬純アントニオ・ネグリ 革命の哲学』(2013)の引用部分を用いた)

*3:この批判はミシェル・フーコーが指摘したネオリベラリズム下における「企業としての個人」と呼べるような事態に関わるものである。これに関しては、廣瀬純『頭痛——知力解放から放棄へ』(同著『蜂起とともに愛がはじまる 思想/政治のための32章』(2012)収録)や箱田徹『今を生きる思想 ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方』(2022)の第3章などが参考になる。