すずめの戸締りノート

 震災後の文脈を汲んだ作品として、東日本大震災(以下、震災)当時幼少期だった子供を主題に置いたという点に注目したい。文学作品が例になるのだが、震災から間もない頃のそういった作品は多和田葉子の『献灯使』や川上弘美『神様(2011)』、高橋源一郎の『震災後文学論』など、子供は「(未来の)死者」として表象されている傾向にあったと思う。すずめの戸締りにも、すずめの死生観など、子供に纏わりつく死の気配がないこともないのだが、全体的に希薄だし、それは終盤乗り越えられる。前述した作品群とすずめの戸締りで決定的に違うのは、子供が先行世代の罪過による犠牲者の象徴なのか、災害からの復興の象徴なのかという点においてだろう。犠牲者としての子供像を乗り越えて、災害によるトラウマを乗り越える希望としての子供を描いたとも言えるかもしれない。だが、それだとすずめの戸締りは先行する作品が重視していたある要素を”捨てる”ことによってそれを成し遂げたということになる。それらの作品の重要部分を占めていた原発という要素が、すずめの戸締りには薄いのだ。

 

 チラッと映る皇居や、天皇制のメタファーなど、やはりナショナリズムの要素を強く感じる作品ではあった。震災の経験を災害ナショナリズムに転ずるには、国家の罪過である原発事故の存在は邪魔だったのだろう。扉を閉める時に現れる人々の記憶が「日本人」のものだけという点も、震災はその土地に暮らす人間たちに降りかかったものではなく、日本人である我々に降りかかったものとしているように見え、ナショナリズムを補強しているように思う。

 

 災害ナショナリズムという点で、庵野秀明の『シン・ゴジラ』と比較してみる。シン・ゴジラはすずめの戸締りと違い、原発の存在を重視していたが、最後は二作ともナショナリズムに着地する。すずめの戸締りは確かにナショナリズムだが、シン・ゴジラ程それが前面に押し出されている感じはしない。その原因は明確なシンボルの有無にあると思う。シン・ゴジラには凍結されたゴジラという災害を乗り越えた復興のシンボルがあるが、すずめの戸締りにそれはない。すずめの戸締りにおいて災害からの復興は、すずめ個人の物語の中で起こるものなのだ。全ての時間が存在する常世で繰り返される幼少期のすずめと高校生のすずめの会遇。犠牲者としての子供を未来に送り出すことの反復を持って復興は成される。それは一回きりの出来事ではなくこれからも続くものとしてある。そこにシン・ゴジラのような区切りとなるシンボルは存在しない。

 

 すずめの個人的な震災の体験が「日本人」全体の震災経験に直結してしまうこと。公的な経験ではなく個人の経験にメタファーを重ねることによって災害ナショナリズムに動員する。この辺の問題が個人的に引っ掛かる。その辺はこれからも考えていこう・・・。