「分割」の暴力に抗う

  崎山政毅田崎英明、細美和之による対談「歴史とは何か 出来事の声・暴力の記憶」を読んだ。歴史教科書問題や阪神淡路大震災永山則夫の死刑から在ペルー日本大使公邸人質事件まで、多岐にわたるテーマを語り合う示唆に富んだ一冊だった。ここではマイノリティの連帯に論点を絞り、個人的に重要だと感じた田崎英明による指摘を引用するところから始めたい。

 

(田崎)たとえばブラック・パンサーとジュネが連帯する。あるいはジュネがパレスチナと連帯する。あるいは、これはランシェールが言っていたことだけれども、六八年五月のときにはパリでみんな「我々は赤毛ユダヤ人だ」と言った。ところがいまは、そんなことを言ったらレイシズムになってしまうということがあって、言えなくなってしまった。それはなぜなのかというのがランシェールの問いなんだけれども、たとえば六十八年だったら、誰もが永山則夫であり得たという可能性だけではなくて、「私は永山則夫だ」と言えたと思うんです。でも、いまはおそらく多くの人たちは言えない。現在我々が確認しつつある世界同時代性というのは、たとえば日本人である我々が「私もパレスチナ人だ」とか「私もブラック・パンサーだ」とか言えないという状況の同時代性の確認というのが先にあると思うんです。六十八年だったら被抑圧者は「被抑圧者」ということで連帯できた。ところがいまは「被抑圧者」というだけでは連帯できなくて、その人はアフロ・アメリカンであるとか、その人はパレスチナ人であるとか、その人はユダヤ系であるとか、被抑圧者がそういう形でかなり細かいアイデンティティを付与されて、パノプティコンじゃないけれども、システムの側に完璧に把握され、ネーミングされて、分割されてしまっている。(以下略)*1

 

 もちろん、同じ非抑圧者だからといって、安易にその間にある差異を無視して同一化してしまえばいいという話で済む問題ではない。しかし、一方で分割されることの暴力性や、分割されてしまうことによって生じる断絶もまた存在する。また、ひとえに分割と言っても、そこには多様な経験としての「分割」があり、分割されるというのはこのような経験なのだと本質的に語ることもできない。例えば、ある性的マイノリティが初めてそのような自分の在り方を周囲から分割できる言葉と出会った時に感じるものと、一方的に「お前は”オカマ”だ」と名指され、集団から排斥される形で分割される時に感じるものとでは分割の質が違う。前者は分割によって居場所が確保される。後者は分割によって追放される。問題は後者のような分割の仕方にあると見えるが、そう単純なものでもないと考える。何故なら前者のような分割の経験から、後者のような分割が生じることもあるからだ。自分たちを高貴なアーリア人とし、自分たち以下であるユダヤ人や同性愛者、障害者を排除していったナチスのように・・・。
 被抑圧者の分割という問題を考えるとき、やはりインターセクショナルな視点を欠かすことはできないだろう。例えば、『黒人女性』が受ける抑圧の経験を『黒人』からくる部分と『女性』からくる部分に分割することの暴力性、そもそも分割することの不可能性があるように、被抑圧者を分割することには、必ずどこかそこに収まりきらない残余が現れるし、きちんとそこに分割されるための規範(正しいマイノリティ像!)へのコミットを強いるものにもなりうる。*2そもそも、分割される以前の「被抑圧者」という想定が間違っているということにもなるだろう。統一された「被抑圧者」という主体は最初から存在していないのだ。よって、田崎の指摘に対して取るべき応答は、ランシェールの問いにあるような『私も赤毛ユダヤ人だ』と再び言えるようになることでも、「被抑圧者」としての同一化を志向することでもなく、分割を擁護することでもない、同一化と分割の緊張感の中でインターセクショナルな連帯、『「同じでない」差別のあり方の間の〈類縁〉を連帯の土台』*3の形成を目指すことではないだろうか。その必要性は性急な課題として私達の前に現れているように見える。
 例えば以下のような言説がフェミニズムの研究者の側から発せられ、それが賞賛される状況がある。

 

 

 武蔵大学教授である千田有紀によるTwitterでなされた高島鈴への批判*5である。が、この理論には問題がある。ここまで被抑圧者の分割の問題の議論を辿って来たのなら、どこが問題なのか容易に指摘することができるだろう。まさしくここで被抑圧者の分割が断絶として働いてしまっていることを確認できる。障害者解放運動の「主体」*6を「障害者」とするとき、民族解放運動の「主体」を「民族」とするとき、フェミニズムの「主体」を「女」とするとき、そのとき主体はその分割されたカテゴリーを通じてしか「主体」になれないのだろうか。「女」以外ないと言うなら、黒人女性は自らを「黒人」と「女性」に分割し、「女性」の部分を通じてしかフェミニズムに関われないのだろうか。「黒人」の部分を通じてしか黒人解放運動に関われないのだろうか。ここにフェミニズムの主体を「女」とすることの問題性がある。無論、「女」を主体に設定するというのはバイナリー的な思考であって、そこにトランスやXジェンダーやノンバイナリーな主体が入る余地はない。フェミニズムの中に入りたければ、身体が「女」であることを認め、「身体女性」である自分を分割し、そこを通じて入れという暴力的な要求をすることになるだろう。
 問題は主体の限定だけに留まらない。千田は主体の分割と同時に運動の分割までも行ってしまうのだ。「障害者解放運動」「民族解放運動」「黒人解放運動」「フェミニズム」をそれぞれ独立したものとしてしまう。これは先の田崎の指摘に直接関わる問題だろう。これらの運動は主体の中にまた別の要素の主体、例えば障害者であり女性である者がいる以上、障害者解放運動とフェミニズムは別の運動ではなく相互に絡まり合い不可分なものとなるように、これらは絡まり合って存在しているものだ。繰り返しになるが、自分の中にあるAを通じてAの解放運動に参加し、Bを通じてBの解放運動に参加するというようなことではないのだ。
 私達はこのような形での分割の思考と縁を切らなければいけない。それは「すべて」の運動を「一つ」にまとめろということではない。事実として分割は存在する。その中から連帯を生み出すのだ。その時、私達はあらゆる被抑圧者への暴力を反対する者として、あらゆる運動の「主体」としてそれらが互いに絡まり合った状況へと投げ込まれることになるだろう。

 

*脚注にあるリンク先の最終閲覧日はすべて2月6日である。

 

*1:崎山政毅田崎英明・細美和之 (1998). 歴史とは何か——出来事の声、暴力の記憶 河出書房新社 174頁

*2:インターセクショナリティについて、日本語で読める入門的且つ手軽に読める文章として、例えば清水晶子による以下の記事がある。

フェミニズムに(も)「インターセクショナル」な視点が必要な理由。【VOGUEと学ぶフェミニズム Vol.5】 | Vogue Japan

*3:岩渕功一 (2021). 多様性との対話 岩渕功一(編) 多様性との対話 ダイバーシティ推進が見えなくするもの 青弓社 26頁

*4:

https://twitter.com/ekodayuki/status/1622353225742716928?s=20&t=XGdTVe5l_39mzQaBTepNUQ

*5:批判のきっかけになった高島のTwitterの投稿は以下のリンクを参照。ビッグイシューに掲載された上野千鶴子のインタビューへの批判となっている。

https://twitter.com/mjqag/status/1622190952323612672?s=20&t=XGdTVe5l_39mzQaBTepNUQ

*6:千田の発言の中にある主体の定義は明言されていない為不明だが、ここではsubject、つまり語源をsubjectum、ギリシャ語まで遡るとύποκείμενονとするもの、「下に投げられているもの」という現代思想においてスタンダートな語法として定義する。