読書記録「ヤジと民主主義(北海道放送報道部道警ヤジ排除問題取材班)」

 2019年7月15日に札幌市内で起きた安倍晋三首相(当時)による応援演説時に起きたヤジ排除事件とその後の裁判やそれを取材したドキュメンタリー番組の放送の記録、元北海道警幹部の原田宏二氏へのインタビューをまとめた本書は、道警のヤジ排除の問題点を包括的に知ることができるとともに、私達にとって「表現の自由」や「民主主義」というものがいかなる意味を持つのかを考えることができる示唆に富んだ一冊である。

 道警は応援演説中反対派のプラカードを掲げた女性を包囲したことについて、それを正当化するものとして、警察法二条をその根拠に置こうとした。条文はこのようなものだ。

 

第二条 警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。

 

 しかし、元道警幹部の原田氏がインタビューで答えるように、警察法はあくまで組織法であり、権限法ではない。権限法として警察法を使用できるのなら、警察は何でもできるようになってしまうと原田氏は警鐘を鳴らす。この自らの存在理由である組織法をそのまま権限の行使に「転用」する道警の姿は、ノーム・チョムスキーイラク戦争グァンタナモ湾岸収容キャンプでの拷問、ビン・ラディン暗殺などを受けてそのアメリカの横暴を批判した際に使った「ならず者(国家)」という言葉を想起させる。「みずから第一人者と称して国際法」を掲げつつ、「みずからその名のもとにいわゆるならず者国家に対する戦争」を仕掛けるも、「みずからの利害が命ずる場合に毎回無視し、(国際法を)侵犯してきた国」はアメリカに他ならないというチョムスキーの批判は、ヤジ排除における道警の暴力を表す言葉として使えるものだろう。つまり、「みずから第一人者と称して警察法」を掲げ、「みずからその名のもとに反対派のヤジやプラカードに対する排除」を仕掛けるも、「みずからの利害が命ずる場合に毎回無視し、警察法を侵犯する」、「ならず者警察」としての北海道警察が存在するのだ。
 このような「みずからその名のもとに」行われる根拠のない行為はヤジ排除に留まらず、監視カメラ、NシステムGPS、DNA型鑑定などを使った、市民のプライバシーの侵害に繋がる危険のある捜査を、法的なルールも決めずに何の根拠もなく公然と警察は行っていると原田氏はインタビューで答える。そして特定秘密保護法や通信傍受法、それに連なる組織犯罪対策法の改正である共謀罪など、今も警察はその権限を強化しようとしている。「敵」の認定とその殲滅が政治的なものの概念と国家主義の本質があるとカール・シュミットは主張していたが、自らを脅かす(と考えている)存在を探し出そうとし、それを排除しようと躍起になる国と警察の姿はまさにシュミットの主張がそのまま当てはまる国家の姿だろう。ナショナリズムのような情動による結託の政治は、その結託の為に外部の敵の存在を必然的に要請するのだ。(そしてシュミット自身もその政治(ナチス)に協力をしてしまう)秋葉原での演説で反対派に対し「あんな人たち」と罵りその場で支持者の結束を高めた安倍晋三のパフォーマンスが記憶に新しい。
 

 ここで疑問となるのは、では安倍やそれと結託した警察を「敵」とし、「民主主義」を守るためにそれを打ち倒そうとする私たちは動機は違えど彼らと同じ構造を共にしているのではないか、という点である。「敵の政治」は民主主義が直面する難問であり、ジャック・デリダはそれを「自己免疫的民主主義」と称した。そしてデリダは「自己免疫は絶対的な悪ではない」と語る。デリダの言葉を引用しよう。

 

自己免疫は、他者に曝されること、すなわち到来するものないし——したがって計算不可能にとどまるほかないもの――に曝されることを可能にするからだ。もし絶対的な免疫があるばかりで自己免疫がないとしたら、もはやなにも起こらないだろう。こうなると、もはや待つということも期待するということもないだろうし、お互いに期待することも出来事を期待することもないだろう。

『ならず者たち』鵜飼哲・高橋哲也訳、みすず書房、2009年、p.290


 「敵」はようするに自分たちではないもの、その「自分たち」を根本的に問い直すもの、その「敵」がほんとうに「敵」なのかを問い直すものでもある。「自己免疫」は「自己批判への権利」でもあるのだ。北海道警察の排除行為は民主主義の敵であることに変わりはないだろう、だがこの問題は今も続く裁判に勝って終わりの話ではない。その後どのような民主主義を作り出していけるかは私たち市民の手に掛かっている。